ある日作業をするぞ!というときに
手が痛くて作業どころではなかったので休憩をすることにしました。
手も痛いし頭も働かない。
なので食事を取るか何もしないかしかできません。
数時間何もしない状態になると同じことを続けられない本能が働くので
何かしたい気持ちが自然と湧き上がるようになってきます。
🌈夢を見るでも書いたように
それは何かを表現する上で必要な過程だと認識しています。
何もせず自分が何がしたいか湧き上がるのを待っているときに
ふと「砂遊びがしたい」と思いました。
全身土や水でべちゃべちゃになって日常の殻を破り
やりたい放題やってみたいなあと思うわけです。
潮干狩りとか海辺に行けばそういうので遊べると思いますがすぐにはできません。
なので公園の砂場が思い浮かびます。
幼児の時ぐらいしかやった記憶がないのでやり方を動画で調べます。
水を混ぜると砂が硬くなって固定できたりバケツやスコップ、砂を切ったりならす道具があると効率が良くなったり表現が広がったりするわけです。
しばらく砂で何かを作るような動画が流れてくるのを受容していたら
その中でアナログ画のメイキング動画に行き着きました。
私は学生時代、水彩や油彩、粘土を触るなどをしていた時期がありました。
スケッチをするために、鉛筆やシャーペン、ボールペン、筆ペンなど色々な画材を試していました。
なので懐かしいなぁと思いつつ知らない画材を見てそんなものもあるんだなぁと新鮮に思いました。
デジタルは質量がないのでアナログのように物体同士の積み重ねや音を立てて出来上がっていく面白さは存在しません。
水と絵の具をたっぷり含んだ筆を走らせるときのなめらかさや
乾燥した筆を擦りつけるときの抵抗感が伝わる感じなど
音を聞いただけで感触の記憶が蘇ります。
感覚のリマインダーでも書いたように
「触覚を感じながら絵を描いているときに一番うまくいっている気がする」
という絵の哲学が私の中にあります。
触覚を感じながら描いていると「ここの形は違和感がある」というフィードバックを感覚で受け
試行錯誤を繰り返した果てに美しい形状を表現できると感じています。
自分は五感の中で触覚の方向に長けていた結果このような考え方になったのかもしれませんが
そもそもなぜ触覚に対する感覚が強まったのかというと
「色々なアナログ画材を触っていたからではないか」とそこでやっと気付きました。
クレヨン、色鉛筆、マーカー、Gペン、丸ペン、コピック…
今思うと本当にいろんな画材に触れてきたなと思い出してきました。
一見何のためにしてたのかわからない積み重ねが後々こうやって伏線回収のように繋がってくるのが歳を重ねてからとても面白いと思うようになりました。
自分にとってお絵描きは画材遊びみたいなところがあったのかもしれません。
観察力はそんなに長けていなかったので肝心の絵が上手くなるスピードは遅かった気がします。
自分の五感の能力に順位をつけるとしたら
触覚、聴覚、視覚、味覚、嗅覚
という感じでしょうか。
承知はしているので砂遊びの代わりにできる事はないかなと思ったときに
ふとレトルトのパックご飯とチャーハンの素があることを思い出しました。
火が使えなかったのでご飯をレンチンし
スプーンと皿がぶつかるコツコツ感を楽しむために陶器の皿に入れ替えます。
そこにチャーハンの素をふりかけ、痛みの少ない左手でスプーンを持ちべちゃべちゃと混ぜ合わせます。
混ぜるのに満足した後は出来上がったものを舌に乗せます。
べちゃべちゃしてるしチャーハンの素のテクスチャーも残っているので上手ではありませんでしたが
調理も砂遊びに似たところがあることに気付けて良いリラクゼーションになりました。
デジタル化して利便性を求めた結果
そぎ落とされるものは質量だと思います。
ですが質量には人間の想像を超えた様々な情報が含まれていると思います。
人間の中に眠る人智を超えた能力を出すためには
質量を感じることが必要なのではないかと思いますし
質量を感じるための遊びはこれからも人間にとって大事なもののように感じました。